昭和44年7月5日 朝の御理解           中村良一

御理解 第58節
「人が盗人じゃと言うても、乞食じゃと言うても、腹を立ててはならぬ。盗人をしておらねばよし。乞食じゃと言うても、もらいに行かねば乞食ではなし。神がよく見ておる。しっかり信心の帯をせよ。」



えー、この通りですね。盗人じゃと言われたり、こじ、いわば、悪口を言われたりいたしますと、どこが私が悪いかと。言い訳をしようとするという事なんでしょうね。これは、必ずしも、おー、泥棒とか、乞食とかと言う事じゃないです。ね。自分のことを人が非難する。そすと、どこに自分が非難されなければならないものがあるかと。というふうに言う。例えそれを、えー、良くない非難であっても、どんな悪口を言われても、ね。その人が言うように、思うておるようなことを自分がしておらねば良いと。ね。だから、そこは決して、えー、赤面弁慶になって、言い訳をする必要はないのだと。えー、神が良く見ておると、しっかり信心の帯をせよと。ここんところがね、神様が見ておって下さるんだから。言い訳をせんでも良いのである。ね。そのためには、やはり、しっかり信心の帯をせよという事は、しっかり神様をいただいとかなければ、出来ることじゃない。神様を信じておらなければ、出来ることではない。ですから、その、悪口とか、あー、そういう非難に対して、言い訳をしようとしておる自分を、おー、いわば、発見したら、ね。神様よく見てござると。いわゆる、神様がご承知の世界に生き抜くことが信心だなんて言うておるけれども、自分は、そこんところが、まあだ、あやふやだという事を、先ず、悟らなきゃいけないと思う。神様は間違いないと、いわば、思うておるけれども、まあだ、神様は本当に、信じることが出来てない自分であることを、先ず知らなければならない。ね。そういう時に、ね。例えば、悪口を言われた時にです。本当に、こうニコニコしておれれる自分にね、ならなきゃならん。ね。ところがです、ね。ところがその、悪口を言われる。いわば、煙のないところに、えー、火の気のないところにね。火の気のないところに煙は立たんという具合にです。色々、例えば、だから、厳密にです、今度の自分というものを、たとえば、乞食じゃといわれて、俺がいつ乞食したかと、言うのでなくてです。に、自分は乞食といわれたが、本当に、乞食のような、乞食とおんなじ自分であると言う、ね。例えば、もろうて歩かないに致しましても、食を乞わないに致しましても、心では、もうすでに、食を乞うておる自分だと、乞食だと、心の乞食だと。泥棒だと言われても、俺がいつ、人のものをかすめたかと。と、やはり言う前にです。ね。心で侵しておる。心でかすめておる。と、また、そこのところをですね。一つ、深く分からせて頂きますところから、私は、信心のその深さと、そして、本当に、私共は、おかげを頂かなければ、神様のおかげを頂かなければ、いよいよ、実を言うたら、立ち行かんのだなということが、分かってくると思うんですよね。ですから、ここんところを。ですから、人が盗人じゃと言うても、と言うところをね。ね。神様が、お前は泥棒じゃと、お前は乞食じゃと、まあ、言われたとして、ここんところの御理解を頂きたいと思うですね、今日は。神様は、お前は泥棒じゃ。お前は乞食じゃ。そこに、いわゆる、まあ、おかげ泥棒といったような事を、よく、昔からお話の中に使われますけれども、確かにそうですよね。私共が、只今の私共は、非常に、えー、いつも喉が渇くのですけども、今はひとっつも喉が渇かない。ね。ひもじい事もなからなければ、いうなら、喉が渇くようなこともない。いわば、何も求めなくてもいい。人間がね、そういう状態の時だけであれば、結構なのですけれども、そうはいかんのである。それこそ、喉が引きつるように、一杯の水を欲しいと思うことがある。もうたまらんと。もうへとへと。何か、ここに、おにぎりの一つも食べさせてもらわなければ、もう、じっと立っておくことも出来ない、というようにです。ね。今こそ、ひもじいもなからなければ、んー、喉も渇かんのだけれども、段々ひもじゅうなってくるのであり、段々喉が渇いてくるのである。ね。そこにです、食を乞わないわけにはいかん、水を求めんわけにはいかんのである。ね。いわゆる、食べ物を下さい、水を下さいという事になる。
昨夜、あー、御祈念がすんで、えー、奥に下がりましたら、丁度、テレビで、何か、新派の方たちが、あー、やってる、題名は分からなかったけれども、えー、少しばっかり見せていただいた。水谷八重子と、(大家悦次郎?)の、おー、丁度、場面が映っておった。なかなか渋い芸の人達ばっかりですから、意味は分からないけれども、見ておって楽しいというお芝居だったです。それでその、大家悦次郎を演ずるところの、何とかという人は、あのー、何か、罪を犯して、その無期懲役にでもならなければならないほどしの罪を犯しておったらしいんですね。それが、その前の奥さんのところ、その、水谷八重子演ずるその人が、前の奥さんか何かというところらしいんですよ。そこの、えーその、言葉のやり取りの中に、大家悦次郎が、言いますことです。自分は、小学校の時から、優等生だったと。それはね、とても自分を可愛がってくれた先生がおったと。もう、いつも、その先生が自分のささえであった。その先生のために僕は、俺は勉強したんだと。だから、何時も優等だったとこう。たとえば、監獄に入ってからでも、本当言うたら、無期懲役というようなのが、こうして早くシャバに出られてというのもです。非常に親切な、良い看守がおったと。その看守が、あー、その看守に対して、自分はもう、真面目に、いー、まあ、その何年かの刑を務めたと。いわゆる、模範囚として通ってきたのも、その、おー、看守のおかげだったと。ね。例えば、真面目な、以前の自分という時でもです。自分が、お前という家内があったから、自分は支えられておったと、まあ、言ったような意味の事を、まあ、言っておりました。それを聞きながら思わせて頂くんですねえ。これはまあ、私の場合ですけれども、ね。えー、確かにそうです。私共は、もう支え無しにはね、生きていかれんのが、実を言うたら人間なんです。ね。それが分かってくる事が、私は信心だと思うんです。神様のおかげを頂かなければ立ち行かんのだと。神様の支えがあるからこそ、自分は立ち入っているんだ。ね。そういう意味ではです。ね。やはり、金光大神だってそうだった。天地の親神様だってそうだったんだという事。
世間には、全知全能の神というようなことを申しますけれども、私共が拝ませて頂く限りの神様は、決して全知全能じゃない。それこそ、金光大神に支えられて、この世に出られた神様なんだと。此の方、金光大神あって神が世に出たという神様なんだ。ね。なら、金光大神とても同じこと。ね。その神様あって、金光大神があるのだ。ね。御道の信心の、いわば、根本のところですよね。それには、例えば、私がここで申します、神様が、泥棒じゃと仰ったら、神様が、お前は乞食じゃと言わっしゃったら。私、今日、お願いさせてもらいよったんですよね。まあ、いろんなことを。そしたらあの、んー、昼にあの、55号がね、あのコント55号というのが、あってましたでしょう。あの、今は司会してないのですけど、あの、前武さんが司会やってましたですね、以前。あん時の、後ろのバンドの中にですね。指揮をしておる人の事を、おー、いわゆる、ニックネームですね。鉄火面というて、呼ぶでしょうが。あの、何ていうか知らんけれども、あの人をですね。はっきり目の前に頂くんです、ご神眼に。私が、あることを一生懸命に願いよったらね、それを頂くんです。まあ、鉄火面という事は、鉄面皮といったような意味合いに感じたんです、私は。厚かましいということなんです。はー、思うて見たら、もう本当に、脇の下から汗が出るように厚かましい事を願っておったからなんです。ね。それを今までは、願いもせずに頼みもせずに、それを頂いておったという事になったら、もうそれは、やっぱり、乞食であり、または泥棒だという事になるでしょう。私に、もう、お前のような厚かましい奴はおらんぞと、こういわらた感じが。言われてみて、脇の下から汗が出る思いがする。ね。願うた上に願い、厚かましい。どうぞ、ここんところを改まらせて頂きますから、おかげ下さいち。おかげ頂いた。そして、また同じ事をお願いしよる。改まっても何もおらん。それが、二辺、三遍なら、もう、こらえてもやろうけれど、しらごつばっかり言うとる、神様に。ね。そしてまた願っておるということがです。なるほど、鉄仮面であろう、厚かましい、それこそ、鉄面皮であろうと。ね。乞食じゃといわれても、泥棒じゃといわれても、一言もない。ところがです、そう厳密に言うて参りましたら、私共はもう、一生、鉄面皮で終わらなければならんのであり、一生、泥棒であり、乞食でありで終わらなければならないわけになるのです。ね。だから、そこんところを、ね。神が良く見ておる。しっかり信心の帯をせよと仰る。私は、しっかり信心の帯をさせて頂くということは、ね。本当の信心を分からせてもらうと、ね。そこから、例えばその、大家悦次郎のセリフじゃないですけれども、支え無しには立ち行くことに出来ない私という事になるのです。ね。先生が良くしてくれた、子供の時に。その先生に対して、僕は、勉強したんだと。だからいつも優等生だった。先生がいつも後ろ盾にある。いつも見ておってくれる。よく出来れば褒めてくれる。だから、一生懸命褒められたい一心で、勉強して、俺は優等生だったんだと。ね。自分はもう、無期懲役と思われるように、と思うておった、その監獄が、こんなに早く出られたのは、看守が良かった。素晴らしかった。親切だった。その、看守に対して、自分は、その、何年間の役を務めてきた。それこそ、真面目一途に努めてきた。それが認められて、このように早くシャバに出ることが出来たと。お互いがね。いわば、一つ本気で、窮屈なね、生活をしておると。ね。お金に窮屈な思いをしておる人は、やはり、そういう、窮屈な中に押し込められておると、先ず、悟らなければいけない。病気で、布団の中にばっかり入っておる人は、布団のね、牢の中に閉じ込められておると知らなければいけない。ね。そして、いわば、この上もない看守です。ね。神様が見ておいでだから。神様が聞いておって下さるのであるから。ね。そこの、難儀な中でも、苦しい中でも、神様に対して、一生懸命の勉強もさせて貰うたら、精進もさせて貰うた、修行もさせた貰うた。そこんところに、私は、信心の有る者と、無い者の違いが大変、こう開きが出来てくると思うのですね。良い看守に恵まれてないわけなんですよ。良い先生に恵まれてないわけなんです。ね。いわば、ほんなら教会にと言うてもいいです。ね。例えば、まあ、ここではまあ、私ぐらいな者が、取次ぎ者として、先生としておかげを頂いておるがです。それを例えば、皆さんがです、まあ、良い先生に恵まれたと。まあ、ようもようも、合楽に御神縁を頂いておりましたと。まあ、皆さんが言う人があります。これが○○教会であったら、とても、今日のようなおかげは受けておられなかった。ようも、合楽に御神縁を頂いておって、良い先生を頂いて、私は幸せだというような意味の事を、皆さんがよく言われます。ね。まあ、それは嘘か本当か分からんに致しましてもです。そういう、良い先生に恵まれるという事。その、先生に対して一生懸命に信心する。信心、先生に対して一生懸命に修行させて貰う。先生が、ああ言うて下さるから、辛抱の出来んところも、辛抱させて頂きましたと、こういうこと。ね。そこで、例えば、あー、学校であるならば、その先生に対して一生懸命、先生がその、喜んで下さるから一生懸命信心させて貰って、優等生だ、何時も優等生であったという事にもなるでしょうし、ね。素晴らしいことという事においては、いわば、あー、この上の素晴らしいことはない、この上の素晴らしい神様はないという、神様を頂いておるから、その神様が見ておって下さるから、いわば、辛い年期も、本気で、いわば、めぐりの深い私が、ね。めぐりの牢の中に閉じ込められておった時でも、そのなかに、喚起の生活を求めて一生懸命真面目に、いわゆる、実意丁寧に、そこんところを過ごさせて頂いたと。おかげで、普通は、無期懲役、一生、苦しまなければならないようなところを、おかげでこのように、早いおかげを頂かせて貰うて、毎日、有難い、勿体ないの生活をさせて頂いておるという事になるのじゃないでしょうかね。
先ほどから申します様に、私共が拝ませて頂いておる神様。その神様ご自身もです。実を言うたら、神様だけでは立ち行きなさることが出来ない神様。初めて金光大神を発見されたときの喜び。初めて金光大神に神頼みがあった時。それを快くお受けになられた時の神様の喜び。そこから、金光大神と天地金乃神との、いわゆる、あいよかけよの働き合いというものが、始められるようになり、私共が、おかげを頂かれる段取りになってきたわけなんです。ね。そこでです、ね。御道の信心で言われるところの、あいよかけよという事になってくるわけです。あなたが何時も支えになっておって下さったから、お前が支えになっておってくれたからという事になってくる。その辺からですね。泥棒でもなくなり、乞食でもなくなってくるんですよ。ね。いわゆる、あいよかけよで立ち行く世界の顕現というふうに言われますですね。あいよかけよで立ち行く道。立ち行く信心。ね。私は、そういう時に何時も例を、まあ、取りますが、もう亡くなられました田代さん、ね。親先生、貴方のおかげで、現在のむつやがありますとこう言われる。私は、その時に、何の事だったですか、丁度、おー、夜の御祈念前に参って見えました。その時に、椛目的、まあ、ある難儀な問題を、田代さんがおかげを受けられて、それが、おかげ頂いた事があった。そげな事をですね。田代さん、おかげで椛目が立ちますと私が言ったんですよ。そしたらもう、田代さんが恐縮されて、先生もうほんと、もう、親先生あって、実は、現在のむつやがございますとですとこういわれた。私と田代さんとの、おー、ま、やり取りなんです。田代さん、貴方があって、椛目が立ち行くんだと。当時ね。いいや、親先生あって、頂いて現在の私があり、私のお店があるんでございますとこう言われる。また、いえば、本当に、両方ながら本当である。ね。そこでです。ほんなら、合楽の教会で、日参信心の稽古をさせて頂くならです、何かをかです、そこに、貴方があってくれて、合楽が立ち行くんだと、言われるくらいの信心を頂くことだと私は思う。ね。これだけは、貴方を頼りにしとりますよと。貴方がおってくれて、あってくれて、合楽がたってるんだと。そうです、私がおるけん、あーた、合楽がたっていきよるとですよじゃ、また行かんわけです。ね。そこんところを、いいえ、合楽の教会があって、親先生あって、実は私たっておりますというように、双方が本当に、おかげを受けておらなければいけないのである。ね。そういう、双方からの働き合い。そういう時に、どういう事になるでしょうかね。神様の、御物。神様の御物を、お預かりしておるという自覚ですかね。私のものとは何一つとてない。全てが神様の御物であると、まあ、よく申しますね。
親にかかり、子にかかり、あいよかけよで立ち行く、ね。親の事は子が願い。子の事は、親が願い。願い合い致せということになる。そういう信心。そういう、例えば、信心が本当に、密なる物になってくる時に、どういう事になるかというと。ね。もう、親のものは子の物。子の物は親の物と言うような事になってくるわけです。ね。あいよかけよというのは、そういう事なんです。神様のものは私のもの。また、私のものは、一物もないのですね。私のものは、全てが神様の御物だという事になってくる時に、神様のほうから、ね。お前に預けておる、全てのものは、お前のものだという事になってくるわけです。親のもんは子のもん。子のもんは親のもんと。この辺で、俗に申しますです。ね。ところがその、おー、親のものは子のもん。子のもんは子のもんち言うごたる風な、あはっ、いき方がおいいという事なんです。ね。親んとは、もう俺がもん、何でんかんでん。自分のとは自分のもん。けれども、そういう、例えば、信心をしとる人がどのくらい多いか分からんのですよ。ね。本当に、全て一切が、貴方の御物であると、悟らせて貰う。そこから、神様の御物は、自分の物と思えれるほどしのおかげがです。限りなく、限りなく頂けてくるわけなんです。ね。そすと、どういう事になるでしょうか。ね。今日は、ここは、人が泥棒じゃと言うても、盗人じゃというところを、神様がと私は、申しますですね。神様が泥棒じゃ、神様が乞食じゃと言われたら、私共は、実を言うたら、一言もない。ね。ひもじければ、喉が渇けば、そこに、水を求め、食を乞うのである。もう、すでに乞食なんだ。食を乞う。ね。ところがです、段々おかげを頂いて、いわゆる、あいよかけよの理が分かり、神様と私共がこう、支え合うていく。いわば、丁度あの、人という字のように、ね。こう支え合うてある。神様に支えられ、また、神様も、氏子に支えられておられる。そこから、立ち行くおかげを受けるのが御道の信心なのだ。にもかかわらず、ね。神様が、ね。掛かり合おうとなさる。神様が、支えて欲しいと思し召す時には、向こう向いて知らん顔しておる。こちらの願い事だけば、やあや言うてお願いをしておる。ね。本当に、鉄火面だという事になるのです。ね。そこで、今日のここんところを、神様が泥棒じゃと仰り、神様が乞食じゃと仰られたら、一言もないけれども、私どもの信心が、段々、その、あいよかけよの理が分からせて貰うて、貴方あって私、私あっての貴方と、ね。いわゆる、神様、金光大神あって神が世に出たと仰るほどしのです。ね。信心を求め、信心を目指して、おかげを頂くとき、初めてです、泥棒でもなくなり、乞食でもなくなるという事になるのです。ために、どうぞ、ね。神様が見ておる、神様が支えておってくださる。何時も自分を神様が支えておって下さる。神がよく見ておると仰る。神様が見ておって下さることを信じられる。そこから、しっかり信心の帯が出来る。ね。しっかり信心の帯が出来るという事は、ただ、信心の帯をして、一生懸命参るということじゃなくて、ね。しっかり信心の帯をさしてもらうという事は、御道の信心では、いわば、あいよかけよの理が分かるということ。ね。そして、あなた無しには立ち行かれんという自覚。ね。貴方あって私。神様あって私だと。そこんところを、神様は、氏子あっての神と、こう仰っておられる。ね。そこんところを、今度、私共は、神様あっての私。いいんや、神様あって、いいんや、氏子あってのと。こう、そこんところを、先ほどの、田代さんと私の、その、おー、ね。お話と同じことになってくるでしょうが。そういう事に、あり方に、お互いの信心が、進んでまいります時にです。ね。段々、私共は、ね。今日、ここで言う、泥棒でもなければ、乞食でもないという事になる。もう、あなたの、私のものは、一切があなたの御物。という時に、どげんなるかというと。私の物は、みんな氏子の物だという事になってくるわけなんです。して見ると、取るとか、かすめるという事じゃない訳なんです。ね。初めてそこに、そういうしっかりとした信心の帯をさせて頂いて、初めて、泥棒でもなからなければ、乞食でもないと言えれる。それは、人が見てではない。神様がご覧になっても、そのようなおかげが受けられる。そういう信心を現していく人達の上にです。御神徳が、御神徳が輝くのですよね。どうぞ。